昭和41年01月29日 朝の御理解
五穀豊穣身の上安全、牛馬の事に至るまで実意をもって願え。何なりともどの様な事でも、実意をもって願えと。神様ただ神様に自分の願い事を致します。それはどんな事でもよいから、ただ願うだけと言うのではそれはまあ、片便の願い捨てと云う事であれば、それでいいかも知れん。例えばお宮様とかお寺様にお参りして、まあ色々と祈りをささげると致しましょう。
そしてさあ自分のああ、ありたいこうありたいと言う様な事をまあ、仏様だったり神様にお願いをすると、その事が五穀豊穣の事もあれば、身の上安全の事もある。牛馬の事に至るまでまあ、お願いを致します。けれどもそれは、どこまでも願い捨てのものである。お道の信心の、私しあの願いと言うのは、片便で願い捨てでないと言う所、願った、願った事に対してです、必ず御返事を頂いて帰る言う事、それはどう云う事かと言うと神様の御心にある、御教えを頂いて帰ると言う事。
だから、ここの所がですね、実意をもって頂いて帰らなければ、願った事のおかげにはならんのです。そこで、私し共が信心さして貰って、実意をもって願えと仰る、その実意の追求をする訳けなんです。実意とは、私し共の心から、我がままな心と、横着な心を取り除いた心を実意と言うと仰っておられるのですが、私し共のその我がままな心とか、そう言う様な、横着な心と言うものを取って願う。願いと言うものは本当に純粋な願いになって来るだろうと、こう思います。
例えば、商売を、繁盛を、願わして頂くでも、ただ自分のお店だけの繁盛と、自分の立身出世と、自分の都合の良い事だけの願いではない。そん願いから、実意丁寧と言うものを願いそういうもののこもった願いと言う事になる訳で。私しあの思うんですが、もう朝も朝にも晩にも本気で御教えに取り組まして貰、本気で例えて言うなら。きのう竹葉会の方達に対して、その曲り角にあるんだと、その曲り角の真暗い曲り角を、自動車を持って走っておる。そのライトが無い光が無い危ない。
暗い時に光り無しに走る程危険な事はない。私し共が信心さして頂いて、どの様な暗い所にありましても、曲り角にありましても、信心の光と言うものがあれば、曲り角も曲リそこなわん。暗い所も不自由せんで進んでいけれる。その光を頂く事に、今年はいよいよ焦点を置かないけんと言う様な御理解を頂いてましたけれど、お互いが果たして、そんならその光を頂く事の為にです、私しはどれだけ教えを頂き、その事を頂く為に一生懸命なって、おるだろうかと私し、あの朝晩の御理解を解かして頂いて、こう、まあ、一両日、特に昨日から今日に掛けて思とる事ですけども。
毎日毎日頂いておっても、皆んながその光を頂く、いわゆるその光いわゆるその、実意をもってと言う所の信心が、身に付いて行きよるか、行きよらんか、分らん様な気がする。何かあのコンクリーの上に水をまいておる様な気がする。本気でそこに精進していない。自分の心ん中に、本当に、本当の意味での実意が出て来た、自分の願いと言うものが、実意をもって願える様になった。自分の心ん中に、光が育って行きよる。光が段々大きな光に変わられて行くと言う事が。
楽しみにと言う信心を、頂いておる人達が、まだ本当にあるとじゃろうかと、この最近疑わしくなって来る様な事がある。ただ御理解を神様の知恵とでも申しましょうかね。本当に噛んで含める様に御理解下さる。それをただ、成程と、最もだと言う様な顔して頂いておるけれども、それが果たして、どれだけお互いの実意のこもった生活態度になって行く事の足しになっておるだろうか。
お互いこうやって信心さして頂いておるが、どれだけ自分の心の中に光が頂けておるだろうかと。もし、真暗になっても、こげな事になっても、この光さえあれば大丈夫といえれれる信心を、楽しみにお互い信心をしておるのだろうか。ただ、教祖の神様の教えて下さる様に、五穀豊穣、身の上安全、牛、馬の事に至るまで、いわば、ただ願うと言う事だけに終始しておるのじゃなかろうか。実意をもって願えと言う、その実意の追求が、疎かになっておるのじゃなかろうかと。
そこに私しは光、心に頂く光の有り難さと言う様なものをです、徹底して、ここんところに精進さして頂くと言う意欲が少ないのじゃなかろうか。と言った様な事を。これは私しの、私しが思い違いをしておるのかも知れません。けれども、まあ、朝晩伝えさしておるけれども、果たして惟は伝え甲斐があっているだろうか、と言った様なひとつの疑惑が出てまいります。まあ人じゃない、自分が頂いて行けばいいんですけれども、折角こうやって、皆さんにも伝えさせて頂いているのであるから。
本当にその事が楽しみでそれを頂かしてもらい、楽しみで実意を持っての生活があり、実意を持っての願いが出来る様な私共にならして頂くと、そこんところを唯普通の神様仏様に願う。唯五穀豊穣を願い、身の安全を願い、ほんとに、私しは、片便の願い捨ててきな、信心に互いなっておるのではなかろうか。そこに、私しは、知らんけれど、こんな淋しさを感じるのじゃなかろうかと言った様なものを思うんですね。
どうぞ、片便の願い捨てではいけません。願っておる事が、成就するやらせんやら言わばと言った様なもんではなくて、願ったが最後、実意をもって願ったが最後、成就するんだと言うこの確信の持てれる様な信心。それには、どうでも片便の願い捨てではいけん。 帰りに頂いて帰れるそれを、私し楽しみに信心さして貰、それを今日一日の、行じさして貰う生活の焦点ともポイントともなる様、あ、一日でありたい。
ところがそこんところがお互い、疎かにされておる様な事はなかろうかと、まあ、思うんですね。どうぞ一つ、実意をもって願われる、しかも、片便の願い捨てではない、はっきり御返事を頂いて帰れる、私しはそこんところに信心、御道の信心の、有難さが分る様なおかげを頂きたいと思うのですね。
どうぞ。